人は自分のものさしで考える。
相手のことも考えていると言われそうだけど、それだって相手はこうだと望ましいだろうと想像しているだけの自分基準である。
他人の物差しの長さなんてわからない。
怒り狂う前に冷静に意見を言うべきだ。

言い争いは、たいがい論点がずれている。一つの事象に見えて、怒りの原因は別にある。

ないがしろにされた。
自分を否定された。

一方がこれを根底に怒っても、相手には目の前の責められた事実しか見えない。はっきり伝えてしまえば、そんなつもりの発言、行動ではなかったと誤解が解消されることはよくある。

意見をおしつけないで!も、お門違い。
人には人の意見があって当たり前で、強くこうした方がいいよ!と言われても、選ばなければいいだけの話。ましてや私がブログやTwitterでこうやって断定的に話していることも、ただの一意見なのだ。

それが正しい、正しくないなんて誰も決められない。押し付けるな!上から目線だ!と感じるなら、自分にとって痛いところをつかれたということ。そういうことに冷静でいられないのは、今までの人生で他人の反対的な意見に聞く耳を持たなかったということ。

テレビの前で、政治家の発言や、事件・事故の加害者の糾弾を必死にするのは、自分こそが正論だと信じ込んでいるから。心にゆとりがないから。誰にだってその人の事情、その人の人生があるのだ。腹の中が見えなくても、これだけは事実。そう思うだけで少し冷静になれる。

ブログに偉そうに書いているけど、あなた自身が実行できてないじゃないかと指摘されたことがある。その通りだ。

誰もが自分のことを棚にあげないと意見が言えないと気が付いた。完璧な人間なんていない。私がこうだから、あなたたちも頑張ってね?なんてつもりで書いていない。まぁ、そう見えたから責められたんだろう。

正直、自分のダメなとこを見つける度に、自分自身へ戒めとして書いていることがほとんどだ。忘れないように、次は少し楽になれるように。もっとこうなりたい、こう変わりたい、という書き方をしたらわかりやすいんだろうが、最近は以前より増して断定的に書くようになった。

そう強く主張したいからかもしれない。その意見だって、どんどん変わる。自分の中で新しい発見は日々あって、信じていた考えも日々変わる。だから、りーらいさんがこういう人だと決めつけるのも、お門違い。

久しぶりに深夜に頭の中で言葉の渦が止まらないので吐きだしました。失敬。これで寝られるといいな。ふふ。ほんじゃ、あでゅー!